ニキハは、ナターシャがとある呪歌の練習をし始めた頃から、
童話「眠り姫」によく似た変な(……)夢を見るようになる。
不思議なことに、シズイ、ミトロフォン、ナターシャも全く同じ夢を見たようだ。
訝しみつつもひとまず保留にした4人だが、
何やら不穏な内容の夢を見た次の日、ナターシャが体調を崩してしまう。
心配したニキハ、シズイ、ミトロフォンは原因をつとめようと動き出す……
という話です。
14-15歳くらいの話です。
2017年頃に学祭で、テーマ「童話」で発表しました。
アクションシーンをちゃんと書いたことがなかった気がしたので、
魔物とか魔法とかでドンパチしようと思った気がする。多分。
8000字くらいです。
昔々ある王国に、かわいい女の赤ちゃんが生まれました。王様とお妃さまはとても喜び、国中の人を呼んでお祝いをすることにしました。その席には十二人の魔女たちも招かれましたが、十三人目の魔女だけは呼ばれることはありませんでした。なぜなら、魔女たちに使ってもらう金のお皿が、十二枚しかなかったからです。
十二人の魔女たちは、赤ちゃんに贈り物を捧げました。優しい心や美しさ、賢さなどです。その時、お祝いに呼ばれなかった十三人目の魔女が現れました。魔女は自分だけお祝いに呼ばれなかったことを怒って、「赤ちゃんは十五歳の時に、紡ぎ車に刺されて死ぬ」という呪いをかけてしまいました。しかし、まだ贈り物をしていなかった十二人目の魔女が、「死ぬのではありません。眠りにつくだけです。そして素敵な人のキスで目を覚まし、その人と結ばれるでしょう」と魔法をかけました。
それでも心配だった王様は、国中の紡ぎ車を全て燃やしてしまいました。赤ちゃんはすくすくと大きくなり、十五歳の誕生日を迎えました。ある日、お姫様が一人で塔を上ると、おばあさんが紡ぎ車で糸を紡いでいました。紡ぎ車を見たことがなかったお姫様が思わず近づいた時、紡ぎ車がお姫様の指を刺し、呪いの通り眠りについてしまいました。お姫様を包む魔法の茨はお城全体に広がり、王様やお妃様、家来たちもみんな眠ってしまいました。
それから長い年月が経った時、素敵な王子様がお城を訪れました。王子様が進むと、茨は自然と道を開けたのです。王子様はお姫様を見つけると、優しくキスをしました。そうすると、なんとお姫様はぱちりと目を開け、お城は長い眠りから覚めたのです。
こうして、王子様とお姫様は結ばれ、末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
――――パーティー会場だ。
温かみのある橙色の光を放つシャンデリア、混じりけのない銀色のケーキスタンドに、マカロンやモンブランなど種々様々なお菓子。黒のタキシードや煌びやかなドレスを着こなす紳士淑女――その誰もが笑顔で、楽しそうに歓談に興じている。
(……僕は、何をしに来たんだっけ)
まるで夢の中のようにぼんやりとした思考で、きょろきょろと周りを見回す。
と、見下ろした目の前のテーブルに置かれた金の皿、そこに映りこむ、三角帽子を被った自分のぽかんとした顔を見て――
「――っ!」
情報が濁流のように押し寄せ、輪郭のはっきりしなかった思考が鮮明になる。
ニキハ・カルネウスは、自国の王女の生誕を祝う会に、賓客の魔女として招かれたのだった。
同時に、ニキハは豪奢な椅子に座る自分の服装にも気が付いて、途端に猛烈な羞恥心に駆られる。
(なっ、なんで、いくら魔女だからって、男の僕がドレスを着なきゃいけないんだっ……!?)
海のように青いシルクの上に、空色のレースがあしらわれたシンプルなドレス。青色は嫌いではない、むしろ好きな色だ。しかし、それなりに鍛えている線の太い筋肉や高い身長と、繊細なドレス、というよりスカートとのアンバランス加減はかなりのインパクトがあった。
それでも、なぜか思考は、席を立つ、着替えに行くなどの選択肢を選ぶことができない。
ニキハは魔女として、この後王女に祝福の魔法をかけなければならないからだ。
「大事なお祝いの席なのに、なんで僕はドレスなんか選んだんだろう……?」
自分を含めた十二人の魔女に配られているらしい、純金の皿をもう一度見下ろす。湖のように穏やかな、青と水色の二層の瞳が不安に揺れる様子を見つめていると、
「なーにしょんぼりしてんだよニキハ!」
ひょいっと三角帽子を取り上げられ、ニキハが驚いて振り返る。
翡翠色のピッグテールを揺らして、ミトロフォン・ペルトラがいたずらっ子らしく笑いかけていた。
「ミト! 君も呼ばれてたんだね」
見知った友人の顔を見て安堵したニキハは、しかしミトの服装を見て、ああ、と頭を抱える。
「そ! おれも魔女として、ちびっこ殿下に贈り物~ってね!」
ミトロフォンは若草色のドレスを見せつけるようにくるくると回る。ニキハ程ではないが少年らしいしっかりとした体つきと、ふわふわしたスカートはやはりちぐはぐだ。動きに合わせて、小さなイヤーカフを模した補聴器がちらちらと揺れる。
「ていうかニキハお前、ドレス全然似合わねえな?」
「うっ……き、着たくて着てるわけじゃないよ……それに、ミトに言われるのは嫌だな……」
和やかに話す人々と同じように、二人もやいのやいのと話していると、真紅のドレスに身を包んだ少女が二人に近づいた。
「――おい、ミト、ニキハ! もうすぐ贈答式やるから早く並べよ」
呼ばれた二人が同時に振り返り、ぎょ、と同時に目を見張る。
あのナターシャ・ヴェスタリネンでさえ、他の魔女に倣って魔女のドレスを着ていた。ニキハは慌てて立ち上がり、ミトロフォンと共にナターシャの元へ駆け寄る。裾を引っ掴んで、転ばないように足元に気を遣いながら。
「どうしたのナータ!? 君、女の子の服は着ないんじゃなかったの……!?」
問われてナターシャは、金色の瞳でニキハを射殺すように、ギッと睨み上げた。
「オレだって好きで着るかよ女の服なんかッ、オレは男だ! ……でも、オレはちんこがねーからこれが正装なんだとよ、クソッ」
苦々しく吐き捨てるナターシャのドレスは、燃えるように紅く、彼女――彼の精神性をよく表していた。紅色で癖のない短髪と、右半分だけ少し伸ばした銀色のウルフカットは個性的で、彼が独自の感性を持っていることを日頃からよく表現している。
ニキハはふむ、と少し考えてから、
「……大丈夫だよ。ナータに赤は似合ってる。それに僕たちも女装させられてるから一緒だよ」
一応慰めのつもりで笑いかけると、ナターシャはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。それを見ていたミトロフォンは、何かを閃いたように息を呑んだ。
「そっ、そうだぞ安心しろナータ! ニキハのその理論で行くとおれらも実はNo Chincoかもしれ――!!」
自らのドレスの裾を捲り上げようとするのを、ナターシャが拳で殴り飛ばし、ニキハが苦笑いで羽交い絞めにしていると、
ふつり、と暗転した。
ニキハが次に目を開けると、場所は先程と同じパーティー会場のようだが、和やかな雰囲気に真剣さが混じっている。
ニキハは他の魔女たちと共に最後尾に並んでいた。ミトロフォンは列の中心くらい、ナターシャは先頭に近い場所に立って、自身のアコースティックギターを抱えている。
――贈答式だ。
魔女たちがそれぞれ、上質なおくるみに包まれた王女に歩み寄り、贈り物を捧げていく。ナターシャは音楽の才、ミトロフォンは富を捧げたようだ。
粛々と魔女たちの贈呈が行われ、ニキハの前にいた魔女が王女から離れた時、
(……あれ?)
ニキハは、ふと違和感に気づいた。
(一人、足りない……)
思わず周囲を見回す。
(……シズイは?)
足元に、するりと冷気が流れこんだのを感じた次の瞬間、
広間の大きな扉が乱暴に開いた。途端、北国を思わせる猛烈な吹雪が会場全体を包む。扉の向こうの暗がりから、黒いドレスに身を包んだ小柄な人影が歩み出た。
(十三人目の魔女は、シズイだったんだ……!)
シズイ・ミラーは、口角をぐいと上げ、少年にしては少し高い、しかし怒りに澱んだ声を放った。
「――ごきげんよう、国王女王両陛下。この度は王女がご生誕だと風の噂に聞いて、オレも贈り物を捧げたいと思って参上したところだ。ところで、招待状を持った伝書鳩は道に迷いでもしたのか?」
シズイはクリーム色に近い金の癖っ毛をふわふわと揺らしながら、すたすたと王女の元へ近づく。と、困惑した様子のニキハたち三人に気が付くと、大きな赤褐色の瞳をさらに丸くした。
「ニキハ? あ、ナータも、ミトも……なんだ、お前らも来てたんだ」
「う、うん……えーと、うーんと、ドレス似合ってるね……?」
随分と派手な登場をしたシズイに、ニキハは散々迷ってとりあえず容姿を褒めることにした。黒地に銀のスパンコールが控えめにあしらわれたドレスは、シズイ本人が小柄で細いためか、ニキハたち三人より最も着こなしているような気がした。
「シズイお前、女装似合いすぎてなんにも面白くねーな?」
「うるせー、ニキハを見習って素直に褒めろよ」
この状況でも、ミトロフォンはシズイの女装に文句を垂れる。ナターシャはさっさと話を進めろ、とでも言わんばかりにため息をついた。
この四人には、どこか当事者意識が欠けている。
シズイはこほんと咳払いをしてから、王女に向き直った。小枝のような人差し指で彼女を指し示すと、彼の持つ氷の魔力がするりと王女を包み込む。
「――オレからのプレゼントだ! 王女は十五歳の時に、紡ぎ車に刺されて死ぬだろう!」
両腕に収まる程小さな王女の真上に、淡い水色の魔法陣が浮かび、王女に染みこむように消えた。王や王妃の悲鳴が響くが、王女はすやすやと寝息を立てている。
シズイはニキハ達を振り返り、赤褐色の瞳を細めて小さく笑うと、黒のドレスの裾をばさりと翻して氷の粒子の中に消えた。会場の中が人々の悲鳴や怒号に包まれる。
一部始終をぼんやりと眺めていたニキハは、はた、と、脳内に情報が落とし込まれるのを感じた。
(――僕の、贈り物)
「――ま、待ってください!」
そうしなければならない、と誰かに告げられるように、ニキハは思わず、王に抱き上げられた王女に駆け寄る。両手を翳すと、どちらともつかない水と雷の魔力が満ちた。
「ぼ、僕はまだ贈り物をしていないから……魔法はあまり得意じゃないけど、えーと……王女様は死ぬわけじゃない、長い眠りにつくだけだ」
脳内に注ぎ込まれる情報が、そのまま口から流れ出る。
「そして素敵な王子様の、きっ、キスで目を覚まし、その人と結ばれるだろう」
先の黒い魔女とは比べ物にならない程歪な、しかし一応式として完成はしている魔法陣が浮かぶ。それが再び王女の小さな体に染み込んで消えた瞬間、
「痛っ!?」
頭に衝撃が走り、思わず目を開ける。よく見知った自分の部屋。天地が逆さまだが。
「……へ、変な夢……」
寝間着を着たまま、ベッドから転がり落ちていたニキハに、青いカーテンの隙間から朝日が差し込む。眩しさに目を細めた。
………………
「おれはニキハのドレスが一番ひどかったと思う!」
“塾『ペチュニア』”とペンキで書かれた、木の看板が風に揺れる。開館中は常に開け放してある、同じく木製の玄関口をくぐると、突き当りの階段の上にいるらしいミトロフォンの声が聞こえた。
(……僕のドレス?)
いろいろな意味でその言葉が引っかかったニキハは、とりあえず彼の元へ向かおうと急いで靴を脱いでいると、
「あ、ニキハくんこんにちは~。ミトくんとナーシャくんが来てるよ」
玄関脇の引き戸から、黄色のエプロンを着たエーヴァ・ロクサ先生が顔を出した。
「エーヴァ先生、こんにちは。二人は二階にいますか?」
「うん! ついさっき魔法研究室に行ったみたい? そうだ、ニキハくん用の課題、いつもの引き出しに入れてあるからやりたい時にやってね」
「はい。ありがとうございます」
(課題もやりたいけれど、それより先に研究室だ)
ニキハは靴を棚に入れると、小走りで二階の最奥、室内向けの魔法の練習などに使う『魔法研究室』に向かう。
“塾『ペチュニア』”は、七年前に館長エーヴァ・ロクサが開館した施設である。ニキハたちの住む街はそれなりに賑やかだが、首都にある『学校』のような教育施設はまだ存在しない。そこを、エーヴァ先生が教育を志して開拓したのが始まりだ。
塾と称してはいるが、子どもの時間を拘束して行う教育はエーヴァ先生の理念に反していた。そこで先生は、『好きな時に来て、遊び、学び、帰りたい時に帰る』という運営方針を立てた。そして『子どもたちが自主的に学びたいと思える環境を』というねらいの元、庭や広間に遊具を設置したり、図書館や魔法研究室、戦闘訓練室などを少しずつ充実させたりしていった。
その結果、現在は地域の憩いの場としての地位を確立している。ニキハたち四人は、その空間で過ごすうちに出会い、友達になったのだった。
ニキハは扉の横の消灯されたランプを見て、発動中の魔法がないことを確認してから引き戸を開けた。魔法に干渉しないように常に浄化された空間の中に、ミトロフォンとナターシャが胡坐をかいて座っていた。二人とも普段通り、私服の男装を着ていることに密かに安堵する。二人はニキハの顔を見るなり、
「「ドレスとかぜってーない!!」」
突然腹を抱えて笑い転げた。
「い、いきなり何……?」
ニキハは目を白黒させながら、とりあえず二人の側に座る。ナターシャが喉をひくつかせながら、
「いや、さっきミトと話してたらよ、昨日俺とミトが似たような夢を見たらしくてな」
自分たちいつもの四人が、女性もののドレスを着て赤ん坊に魔法をかける夢だったと言う。どういうわけか二人とも記憶がほぼ一致していたことから、二人は誰の女装が最も見るに堪えなかったかを議論していたそうだ。
人の顔を見て徐に爆笑したのはこういうことだったのか、とニキハは納得した。
「……僕はミトもいい勝負だったと思うよ……?」
「へ? え、まさかニキハも?」
「うん。僕も同じ夢を見た、かも」
二人は顔を見合わせる。
「……同じ夢を見るってだけで珍しいのに、三人も同時に?」
ミトロフォンが首を傾げると、補聴器に繋がるピアス型の緑の魔石が、反射で一瞬光った。
と、ニキハの後ろの戸が開く。
「ああ、お前らここにいたのか」
ニキハ達が振り返ると、分厚い魔導書を両手に抱えたシズイが、きょとんとした顔で入って来た。この部屋に来るということは、その魔導書で魔法の練習をするつもりだったらしい。手が塞がったまま戸を閉めようとするのを、ニキハが立ち上がって代わりに閉める。ありがとう、とややたどたどしく呟くシズイに、ナータが食いつくように尋ねた。
「シズイ! お前も昨日の夢、覚えてたりするのか……!?」
シズイは四人で円になれる位置に座りながら、戸惑ったようにそれぞれの顔を見る。
「はあ? 昨日の夢? ……ああ、そういえばお前らが出てきたよ。似合わねードレスなんか着て――」
「やっぱりシズイも見たんだ! シズイ、僕たち全員、同じ夢を見たみたいなんだ」
ニキハがぐいとシズイの顔を覗き込んで訴える。シズイは一瞬たじろいだが見つめ返して、
「――でも、それならどうして?」
四人は考えこみ、沈黙が落ちる。
少し間を置いてシズイが、最近変わったことや始めたことはないかを尋ねた。そういえば、とナータが口を開く。
「俺、最近練習し始めた呪歌があるんだ。今日もそれをやろうと思って研究室に来たんだけどさ――」
その練習中に、ミトロフォンがやってきたと伝えながら、側に置いていたアコースティックギターと楽譜を引き寄せる。四人が覗き込んだ楽譜には、魔法的な効果があることを示す魔法陣と共に、『眠り姫』というタイトルが印刷されていた。
「ターゲットを眠らせる効果がある呪歌だ。上手く使えば、ちょっと脳みそのある魔物を眠らせて、その隙に誰かが倒すなり逃げるなりできるだろ?」
――魔物は、自然界の魔力と、人間の負の感情が結びついて生まれる害獣――
詳しいメカニズムは魔法研究者に任せるにしても、その事実は人々が一般常識として知っていることだ。魔物は、人間と魔力が存在する限り、強弱や形態、性質は違えどどこにでも生まれ得る害獣である。人が居住する村や街には、魔物の発生や侵入を防ぐ結界が張られていることがほとんどだが、街の外れなどでは小さい魔物に出くわすこともまれにある。そこで庶民――傭兵のように魔物退治を生業とする人以外――は、できれば一人、せめて二人で魔物一体を倒せる程度の護身術を身につけることが求められるのだ。
例えば、炎の魔力を扱うナターシャは、意外にも(?)魔物を武器や攻撃魔法で殴るのは不得手だ。その代わり、音楽を通して妨害や補助をするのが得意である。
「歌詞の中身は、ただ童話の『眠り姫』の話をなぞっただけだぜ。歌で話を伝える吟遊詩人の歌と違って、歌に魔力を乗せることの方が大事だからな。『眠り姫』のあらすじくらいお前らも知ってんだろ?」
ナターシャの問いかけに、シズイ以外の二人が頷いた。思わず三人の視線がシズイに集まり、シズイは罰が悪そうに身じろぎをする。彼は昔から、魔法についての学術書を踏破するくらいには勉強家だ。しかし、物語の類には毛ほどの興味も持たず、また親から絵本の読み聞かせなどをされた記憶もないそうだ。
「お、オレだってこの前、図書室の新刊コーナーに『眠り姫』が置いてあったの見たぞ……」
「へー? でもどうせシズイだし、ぱらっと眺めてはい終わり~! だっただろ?」
ミトロフォンがにやにやと笑いながらシズイを見やると、図星だったらしく彼はぷいと顔を背け、ナターシャに続きを促した。ミトロフォンの首から上が魔法で氷漬けになるので、ニキハがシズイをまあまあと宥める。
「あー、それで俺が言いたいのは! 関係してそうなのはこれくらいだけど、俺は夢をいじるような術式は組んでないからよくわかんねえってコトだ!」
ナターシャは大きくため息をつき、話題への興味を失ったようにアコースティックギターを抱えて適当にかき鳴らし始めた。ミトロフォンは彼女の激しいリズムに合わせて、指先から魔法の蔓を出してぴょこぴょこと動かす。
「えーと……とりあえず、なにか害があるわけでもないから、ナータには練習を頑張ってもらえばいいのかな……?」
「そうだな。現状は様子見でいいだろ」
ニキハが苦笑しながらシズイを見ると、シズイは肩をすくめた。
………………
煉瓦でできた円形の壁の中に、人の肩幅くらいの大きさの紡ぎ車が置いてあった。ひとつだけ灯されたランプの光が、動輪の影をゆらゆらと映す。
扉が静かに開き、金髪の美しい少女が、ひょこっと顔を出した。恐る恐るといった様子で、部屋の中に入ってくる。よく手入れの施された髪や、シンプルなデザインだが仕立ての良いドレスは、彼女が高貴な身分の人間だと容易に伝えた。――王女だ。
王女はその部屋に初めて入ったようにきょろきょろと辺りを見回していたが、すぐに部屋の中心にあった紡ぎ車に目を留めた。口元に手を当て、物珍しそうに紡ぎ車を端から端まで眺めまわす。そのうちに、糸が纏まったままになっている紡錘に視線が止まった。繊維の塊だった毛が、撚られて一本の糸になり、それが何重にも束ねられている。紡錘の先はすり減って針のように尖っており、何年も使い込まれていることが想像された。
王女はそっと紡錘に右手を伸ばし、糸に触れて慎重に感触を確かめた。その時、
ぷつ、
意図せず、右手の人差し指が紡錘の先に触れ、小さく刺さった。
その瞬間、大きな地鳴りが響き、紡錘の先から禍々しい茨が大量に溢れだした。
唐突に、自分の意識や身体に実感が湧く。視界が明るくなり、世界の輪郭が鮮明になった。
ニキハは、シズイ、ナターシャ、ミトロフォンと並んで、部屋の片隅で王女の様子を眺めていたことに気が付いた。
茨は王女を包み、飲み込みながら圧倒的な速度で広がり続け、煉瓦の隙間をこじ開けるように入り込み、自分たちにも襲い掛かり――
「――っ、逃げて!!」
ニキハは反射的に叫び、扉へ駆け出した。三人が我に返って後を追う。
ニキハが扉を蹴り開け、三人が転がり出るのを確認する。
「王女様は――!?」
茨が扉へ迫る中、奥で王女が意識を失い双眸を閉じるのが見えた瞬間、
背後から氷の弾丸が頬を掠め、ニキハの手からもぎ取るように扉を封じた。最後に飛び出したシズイが、呪文を唱えながら両手から次々と弾を放ち、氷で扉を埋めていく。ニキハは苦虫を噛み潰したように目を細めてシズイと共に駆け出し、こちらを振り返る先の二人に続いた。
「ごめん」
「いい。ニキハはそういうやつだ」
紡ぎ車があった部屋は城壁塔だったらしい。屋外に出た四人は、他の塔や居住棟などに繋がる回廊を、とにかく脱出するために走る。茨は既にあちこちの壁や床の隙間から這い出て、兵士たちに絡みつきながら広がっていた。茨に取り込まれた者は全て、眠ったように動かない。
と、四人の前後を挟むように床が割れ、ごぼ、と茨が飛び出した。
「くそっ――」
先頭を駆けていたミトロフォンは半ば反射的に両腕を種々様々な植物に変化させ、網目状に広げて茨を縛り付けた。一瞬茨の動きが止まったように見えたが、彼の包囲網が届かなかった茨が、彼自身の植物を伝って襲い掛かる。
「やば――」
「――――ッ!!」
ナターシャが呪歌である甲高いフライスクリームを上げた。彼女の口から吐き出された火炎が、ミトロフォンに伸ばされた茨をすんでのところで焼き払う。
「熱っ、ありが――ナータ!!」
ミトロフォンの悲鳴に、後方の茨を相手取っていたニキハとシズイが振り返る。
飛び出した茨が、ナターシャを背後から絡めとった。二人が駆け寄り、ミトロフォンが手を伸ばすが届かない。驚愕に目を見開いたナターシャはしかし、すう、と瞳を閉じて全身の力が抜け、
「ナータっ!」
布団から跳ね起きた。顔を出したばかりの太陽が、ニキハの水色の掛け布団を照らす。朝に弱いニキハが、日の出と共に起きるのは相当に珍しいが、それより。
「…………は、」
夢にしてはやけに生々しい。ニキハは居ても立っても居られず、ベッドから飛び出した。
………………
「――おは、よう……ナータは?」
“塾『ペチュニア』”は、なんとなく彼らの待ち合わせ場所のようになっている。ニキハが駆けつけると、玄関先でミトロフォンがそわそわしながら、ナターシャの家の方向を見つめていた。軽く挨拶をしてから、首を横に振る。
「それを聞くってことは、ニキハもやっぱり……?」
「……ミトもまた、同じ夢を見たんだ。……シズイもまだ来てないの?」
「いや、シズイは図書室にいるよ。あいつも同じ夢を見たってさ。ナータが練習してた呪歌について調べてる。おれは……なんか、じっとしてるとむずむずしちゃって」
へへ、と苦笑いを浮かべて頬を掻いた。
「……そっか……」
ニキハがため息をついて、ミトロフォンと同じ方向に視線を遣る。そこへ、シズイが靴を履きながら二人の元へやってきた。挨拶もそこそこに、調べてきたことを報告する。どうやら呪歌の中には、稀に術式が不完全なものが紛れており、それを演奏していると術者への反射や副反応が出やすくなるらしい。
「ナータがやってた呪歌――『眠り姫』?――は、多分そうやって作者が適当に組んだ式だったんだろ」
運が悪かったんだ、とシズイがため息交じりに手を軽く振った。それなら、とニキハが口を開く。
「ナータの家に行ってみよう」
「――ナーシャ! いつまで寝てるの、お友達が来てるよ!」
二階から、ナターシャの母親が呼びかける声がする。ニキハ達は、掃除が行き届いた一軒家である、ナターシャの自宅を訪ねていた。右手の扉から見える居間には、彼だけでなく両親の名前も彫られた様々な音楽コンクールの賞が飾られている。ニキハ達は見たことがないが、本人が言うには地下室に防音室があり、音楽系の魔法も含めて様々な楽器の練習ができるのだそうだ。
ニキハは玄関先で様子を見ながら、小声でミトロフォンに話しかける。
「ナータは寝てるだけなのかな……?」
「うーんそうだといいけどなー……でも、ナータがこんな昼近くまで寝てるやつだとは聞いたことないけど」
シズイは、大人や他人の家というものが得意ではないようで、背の高いニキハの後ろに隠れるようにして俯いている。
彼はミトロフォンと共に、外で待っていてもらえばよかったか、などとニキハが考え始めた時、
「……よお……」
パジャマ姿のままのナターシャが、手すりに縋りつくようにふらふらと階段を下りてきた。
「ナータ! えっ、だ、大丈夫……?」
ミトロフォンだけでなく、全員が戸惑う程度には、ナターシャは今にも倒れそうな程顔色が悪く足取りが覚束なかった。
「お前、昨日の夢は覚えてるか……?」
顔を上げたシズイが戸惑いながらも尋ねると、ナターシャはこくりと小さく頷いた。
「お前らは、なんともねえなら……良かったんじゃねえの……」
「僕たちは大丈夫だけど……ナータ、もしかして今すごく眠い?」
心配そうに訊くニキハに、はは、と乾いた笑いを洩らす。
「……具合が悪いってわけでもねえけど……とにかく、ねむ……」
最後まで言い切らずにその場に崩れ落ちそうになるのを、近い位置にいたミトロフォンが慌てて支えた。そこへちょうど階段を下りてきた母親とナターシャに、シズイが――密かに手汗を握りしめつつ――調べたことを伝える。
「――だから、ナータが最近始めてた楽譜は、いわゆる不良品かもしれません。魔法の効果自体は、その呪歌と同じで長くても一日で切れるそうです」
「そ、そんな曲に手をつけてたの……知らなかった……全く、この子ったら最近は何をしてるのかも全然話そうとしないんだから。女同士気が合うと思ったのに――」
そこまで言いかけて、母親は言葉を切って軽い咳払いをした。ナターシャは一旦ミトロフォンの手から離れ、壁にもたれたまま半分寝ている。しかし話し声は聞こえていたらしく、なにか文句を言うように僅かに口を動かした。
母親は、今日中に出版社にクレームを入れて楽譜を送り返す旨を伝えてから、ニキハ達を送り出した。
三人はそれぞれがナターシャに挨拶をする。玄関を離れても彼を心配そうに振り返る三人に、彼はぐったりした様子ながらも小さく口角を上げた。
「ナータ、つらそうだったね」
ニキハがしょんぼりと肩を落としながら呟く。対してミトロフォンは、既に気分を切り替えたように、あるいは切り替えるために、努めて明るく答える。
「まーでも! ナータママがあの楽譜を返品して、ナータも不良『眠り姫』を弾くのをやめれば元気になるんだろ? 解決しそうで良かったじゃん!」
ニキハは、彼が自分を励まそうとしていることに気づいて、そうだね、とはにかんだ。
シズイは歩きながら口元に手を当て、ふむ、と考え込んでいる。
「……オレたちが最近見てた変な夢も、ナータの呪歌が原因だったんじゃねーかな……多分。音楽系の魔法式は専門用語が多くて読み解くのが大変なんだ。発動してる呪歌を聞いたわけでもないから、流れを感じるのも難しいし」
「へー、シズイが魔法のことではっきりしたこと言わないなんて、珍しいな?」
ミトロフォンが、ひょいと身を屈めてシズイの顔を覗き込む。ニキハがふうと息をついて言った。
「式は字面を読むだけじゃなくて、意味もちゃんと理解しないといけないんだもんね。僕はちょっと苦手かも……」
「シズイは勉強ができても、クソ音痴だから音楽の意味だけは絶対わかんね――」
「凍らすぞ」
「もう凍ってるよシズイ……」
ともかく、これでナターシャの体調が回復して、四人で同じ夢を見なくなれば、心配事はなくなる。
ニキハは二人の間をまあまあと諫めながら、心中で安堵した。
……………………
――妙に視界がぼんやりと揺れる。茨に包まれ、王女を始めとする多くの人々が眠る城……ということはわかるのだが、どうにも視界の色が褪せていて見づらい。金の剣と盾を携えた王子が、城の正門に立っている。徐に剣を振りかざすと、正門を覆っていたとげとげしい茨が解け、門が轟と開いた。王子は門をくぐって中へと入っていく。
茨は城の床、壁、天井全てに張り巡らされていて足の踏み場もなく、空間を突き抜けて生えているものも少なくない。それらに向けて王子が剣を振ったり盾を突きつけたりすると、茨は逃げるようにするすると解けていく。しかし、城の随所にまるで彫像のように佇む兵たちは、茨に包まれたまま眠り続けている。王子の武具だけではどうにもならないようだ。
王子は何かを探すように城を歩き回り、やがて宿舎や塔を繋ぐ広い回廊に出た。茨を払いながら進む後ろ姿を見ながらニキハは、
(……あれ、ここ……)
否、シズイとミトロフォンも含めて、自意識がゆるりと形を成していく。
ばちん!
突如、頭の中で火花が弾けるような一瞬の痛みを感じて、ニキハは思わずがくんと膝をついた。
「は、――ここっ、ナータが捕まったところだ……!」
ビリビリとしびれるような余韻を振り払うように、頭を振りながらなんとか立ち上がる。隣にいたシズイとミトロフォンも同じように足元をふらつかせながら立ち上がった。
三人が辺りを見回すと、ちょうど右側に行った先に、茨に捕らわれたナターシャが、俯き気味に佇んでいた。棘に何か所か刺されているらしく、力なく垂らされた腕には血が伝った跡を残したまま、死んだように眠っている。
「ナータっ!!」
ミトロフォンが悲鳴じみた声を上げて飛びつこうとするのを、シズイが腕を思い切り引いて制止した。
「だめだ! 多分直接触ると眠らされるやつなんだ」
両手から鋭利な氷の弾丸を撃って茨を削り始めるのを見て、ミトロフォンはクソッ、と悪態をついてから、木製の弓矢を生成してそれに加勢した。
直接触れてはいけない相手は得意ではないニキハは、
「じ、じゃあ僕はあの王子様を追うよ!」
塔の方向へ向かったはずの王子を振り返った。その時、
『よい。小娘は返してやる』
薄い紙をはためかせた音のように厚みのない声と共に、ナターシャを捕縛していた茨がずるりと解けた。崩れ落ちるナターシャを、ミトロフォンが受け止める。
「う……な、にが……?」
「ナータ! 気が付いたか? おれだよ、ミト! ニキハとシズイもいるよ」
ミトロフォンがほっと息をつく様子や、周囲にニキハとシズイがいることを見てから、ナターシャはまるで寝起きのように、軽く伸びをした。
ニキハが彼らの声を背中越しに聞いて僅かに胸をなでおろしつつ、こちらを振り返って立つ王子を見据えた。
王子は魂のない玩具のような出で立ちで、素人の棒読みに近い台詞を吐く。
『もうすぐ。私の儀式魔法が、完成する』
「……魔物か」
シズイがニキハと並んで、王子に対峙する。ナターシャは皆の予想よりは元気らしいが、棘に刺された傷跡の手当てはミトロフォンに任せていた。ニキハが足を前後に広げて腰を落としながら、シズイに尋ねる。
「この王子様が魔物なの、シズイ?」
「いや、王子だけじゃない。多分この空間……オレらが付き合わされてきた物語全体が、この魔物の支配下にあったんだ……依り代はなんだ?」
王子の姿をした魔物が、口元だけを釣り上げて笑みの形にした。
『私の力は然程強くない……故に、人間の魔力にも頼らなければ。ならなかった。その点で、人間一個で要塞一つ分の魔力を。利用できるのは。千載一遇の機会だ。そして。この物語に沿った人間、を……この、物語に。沿った姿に……する。それが、私の存在意義だ!』
ヒントか? とシズイが小声で呟く。ニキハが王子の話を促そうと口を開いた時、
先程からずっと霞んでいた視界が、砂嵐のようにざらざらと掠れた。
「っ!? なに……っ」
ニキハは目をこすりながら、シズイ達三人を背中に立ちふさがる。
『時間切れだ人間。可哀想に、草木も眠る夜くらい。安らかに眠らせて、ほしいよなあ?』
王子は、下手な人形師に動かされたように、くつくつと歪に笑う。
視界の乱れが酷くなって、何も見えなくなり、
「ッ!!」
ばっと目を開けると、自室は夜明け前の藍色で。
ニキハがベッドから抜け出してカーテンを開けると、太陽が地平線から顔を出す直前だった。この時間の空を見るのは初めてかもしれない。
「――まだ終わってないんだ……!!」
………………
エーヴァ先生への挨拶もそこそこに、ニキハはシズイ達がいると聞いた図書室へ駆け込んだ。引き戸を勢いよく開けると、既に三人とも来ており、一冊の小さな絵本を囲むように座って睨んでいた。
「よう、ニキハ」
「おはようナータ、身体はもういいの?」
ニキハの言葉に、ナターシャがこくりと頷く。倒れそうな程眠かった昨日とは打って変わって、今日は普段通りに起きられたと言う。
「夢の中で、お前らが起こしてくれたのを覚えてる。ってなんか変な言い方だな……、二人には言ったけど、ニキハもありがとな」
照れくさそうにぼそりと呟くナターシャに、ニキハが大丈夫だよ、と声をかけながらその場に座る。対してシズイは、まだ眠そうに欠伸をした。朝には強いはずのシズイにしては珍しい。
「あれ、シズイも眠いの? まさか君も昨夜の――」
「いや、寝不足なのは間違いねえけど、魔物のせいじゃない。……昨日、母さんの宗教の儀式にまた付き合わされたんだよ……」
「えー、大丈夫かよ?」
ミトロフォンがそっと顔を覗き込むと、シズイはいつものことだよ、と返した。それより、と続ける。
「オレたちがここ最近見てる変な夢だけど。結論から言うと、多分原因はナータの呪歌じゃない。こいつだ」
シズイが指差した先には、小さな絵本。表紙には箔押しで『眠り姫』と書かれている。
「覚えてるか? オレが新刊コーナーで触って戻したって言った『眠り姫』の童話。それがこの本なんだけど、恐らくこれに魔物が憑りついてる。ナータ以外で最近『眠り姫』に関わったって言うとオレしかいないからな」
確かに、今のその呪本は、魔物の特徴である悪意に満ちた気配を纏っている。比較的魔力に鈍感なニキハでさえ、それはなんとなく感じられた。そこまではおれたちも聞いた、とミトロフォンがニキハに伝えた。シズイが目を擦りながら続ける。
「で、王子が言ってた言葉を整理すると、この魔物はちょっと変わってて、物語を通して儀式魔法を行うタイプなんだ。昼間は特になにも起きてないから、オレが寝てる間の夢の中でしか儀式を進められない、と考えられる。――魔物自身の魔力は弱いから、誰か適した量の魔力を持つ人間が呪本に触るまでは休眠状態にあったんだろ。……“人間一個で要塞一つ分の魔力”ってのは……多分、オレのことだ」
彼が眠っている間に、術式が稼働を再開する、ということらしい。三人は昨日の夢が、やたらと視界が悪かったことを思い出して納得した。
「魔物の目的だけど――“物語に沿った人間を、物語に沿った姿にする”……これが、んー……」
この辺りはまだ答えが出ていない様子で、シズイはぱらぱらと絵本を捲った。
「俺がやられたのは、茨に捕まって眠らされるってことだよな」
ナターシャが腕を組んでふむ、と考え込む。
「……『眠り姫』の話の中で、眠らせられるのは誰だ?」
シズイが独り言のように呟くと、ミトロフォンがページを捲るシズイの手を止める。王女が紡ぎ車に刺される場面だ。
「眠るのは王女様だぜ。十五歳の時に紡ぎ車に刺されて長い眠りに~……ってやつ」
ニキハが、王子の言葉に当てはまるようにまとめる。
「十五歳の人間を、長い眠りに、つかせる……?」
「ん? 俺まだ十四だぜ」
「ああ、じゃあ十五歳以下の人間を……かな?」
「じ、十五歳って……」
ミトロフォンが、青い顔で三人を見回す。
「……僕たちもそう、だね」
「……」
沈黙が下りる。
「…………オレは嫌だぜ、お前らがあんな風になるの」
突如、シズイが歯噛みしながら立ち上がった。
「講釈垂れてる時間が無駄だった! こんな本今すぐ壊してやるッ」
「わ、待ってシズイ――」
ニキハが制止するのも構わず、氷弾を撃ち出した。しかし、氷弾は見えない壁に吸収されたようにかき消えた。
「防護の魔法も展開してるんだ……」
ミトロフォンが小さく呟く。シズイが舌打ちをしたその時、
『もうすぐ完成する! もっと力のある場所へ!』
絵の中の王女が唐突に目を見開き、抑揚のない声で叫んだ。同時に、呪本からくすんだ緑色の魔法陣が展開した瞬間、呪本が忽然と消滅した。
「な……!?」
「くそっ、逃げられた!」
シズイが悪態をついて、ニキハの腕を振り払う。ばたばたと階段を下りるのを三人が追いかける。
「おい逃げられたってどういうことだよシズイ!」
「あの呪本、“もっと力のある場所”って言ってたろ? 儀式が最終段階に入ってるから、もっと魔力を吸収できるところに自分で移動したんだ!」
この辺りで魔力が集中してる場所をシズイが尋ねると、少し考えてからミトロフォンが答えた。
「えーと、“翠の洞窟”とかっ?」
「じゃあそこに行くぞ」
「で、でもシズイ、魔力が集まってるってことは、それだけ魔物も……」
“塾”を飛び出しながら、ニキハが不安を口にする。そうだ、とシズイが振り返った。
「でもオレは、儀式魔法が完成してお前らが長い眠りにつくなんて、絶対に嫌だ。……手伝って、くれよ」
僅かに目を細めて、三人を見つめる。
最初に口火を切ったのは、ニキハだ。
「…………手伝う、じゃないよ。僕も一緒にやる」
ナターシャはため息をついて、ミトロフォンはへらりと笑って、続ける。
「眠いってだけでも、あれは大分きついぜ」
「おれも一緒にやりたーい」
シズイは、ほっと安心したように微笑んだ。
魔物との戦闘が予想されるので、ニキハたちは一旦分かれ、それぞれの得物を取ってから“翠の洞窟”へ集まった。ニキハは石突を重く作ってある長槍、ナターシャはアコースティックギター、ミトロフォンは弓矢と短剣。シズイだけは得物を必要としない。
“翠の洞窟”は街の外れにある、自然の魔力が集まっている洞窟だ。緑色の苔に覆われていることから、その名前がつけられている。魔力が強い場である分、魔物も引き付けやすいため、魔法の研究目的の学者や、増えすぎた魔物の討伐目的で旅人などが訪れる以外には、人々はあまり近寄らない。
先程の呪本の、悪意に満ちた気配が洞窟の奥から漏れ出る。四人が洞窟を睨んだ。
「さっきは防護魔法? に弾かれちゃったんだよね。何か作戦はあるの?」
ニキハが尋ねると、シズイは腰に手を当てて、ふうと息を吐いた。
「ナータ、昨日の呪歌の『眠り姫』、そらでもやれるか?」
「え、っと、途中までなら」
「わかった、途中でもいい。オレが自分の魔力でナータの歌の力を倍にする。そうすれば確実にオレが効果を受けられるだろ」
「……ナータの魔法で、シズイが眠るってこと?」
ニキハの言葉に、ミトロフォンが大丈夫かな、と呟いた。ぐったりと目を閉じるナターシャの姿が、脳裏に貼り付いているようだ。
「そう。さっき防護魔法が出たのは、オレが起きてたからじゃないかな。だからオレが寝れば、儀式がまた動き出して防護魔法が外れる、と思う。そうすればみんなでも外から殴れるだろ?」
流石にこの状況で安らかに眠れる訳がないので、ナターシャの力を借りたい、ということらしい。
「それに、オレも夢の中から儀式の邪魔ができるかもしれない。『眠り姫』の物語が最後まで終わった時が、儀式魔法の完成なんだろう」
確かに心配だが、シズイの言うことも一理ある。ニキハも逡巡したが、結局はそれを了承した。
力のあるニキハが、シズイを背負う。シズイは魔力を送りやすいように、ギターを抱えたナターシャの肩に手を伸ばした。ちゃんと起きろよ、とミトロフォンが声をかけると、シズイは大丈夫だ、と笑う。ナターシャが穏やかな声で呪歌『眠り姫』を歌うと、程なくしてシズイが体の力を抜いて寝息を立て始めた。
「……行こう」
ニキハの声と共に、三人は洞窟の奥へと進む。
………………
シズイは塔の扉を派手に破壊してこじ開けた。王女はほぼ茨に埋まるように包まれたまま仰向けで眠っていた。紡ぎ車は茨の中に紛れて全く見えなくなっている。
「――確か、王子は姫とキスをして、二人で結婚して幸せに……って結末だったよな」
王子は面食い、という評価をつけて、シズイは王子を待ち構える。勝ち気に口角を上げた。
「あいつらが長い眠りにつくなんて結末、迎えさせてやるもんか」
………………
洞窟の最奥に、呪本が禍々しい気配と共に浮かんでいた。開かれた呪本からは、夢の中のそれと同じ茨が這い出て、周囲を覆いつくしている。
ニキハは眠っているシズイを、呪本との戦闘に巻き込まれない岩陰に寝かせて上着をかけた。
「見た目最悪だな」
まるでミミズの塊のような様相を呈する呪本を、ナターシャが吐き捨てた。
「シズイの言う通りなら、防護魔法はもう解けてるよ。早く呪本を壊して終わらせよう」
ニキハが一歩前に出て槍を構え、ミトロフォンは魔石で作られた補聴器の出力を上げてから、その後ろで弓矢を引く。ナターシャが足元に巨大な魔法陣を広げてギターをかき鳴らし始める。茨が蠢き、呪本から鎧を着た近衛兵や魔女たちが飛び出した。殺気と共に、三人に襲い掛かる。
ナターシャの魔法の効果で、ニキハは自分の身体が軽く感じた。茨を槍の穂先で薙ぎ払い、その勢いを乗せたまま石突で近衛兵の胸を叩き潰す。霧散し、黒い煙のような魔力となった向こうから飛んできた火矢を、回し蹴りで弾き飛ばした。
ミトロフォンが呪文を唱えながら矢を放つと、空中で複数の矢に分裂した。いくつかは鞭のようにしなる茨に弾かれたが、残りの矢は魔女たちにそれぞれ突き刺さる。傷口から蔦を中心とした植物が広がり、魔女たちを縛り上げた。ニキハが魔女を突き刺すと、彼女らも黒い煙のような魔力となって消える。
朗々と歌い上げるナターシャの声に合わせて炎が踊り、呪本を取り囲むように広がる。『眠り姫』に登場する人物が次々と這い出るのを抑えるように燃え上がった。新しい兵や魔女、茨が炎を避けるように現れたり消えたりしているが、いくつかはそれを振り切ってニキハやミトロフォンに襲い掛かる。
「きりがないね……」
ニキハが魔女の顎を蹴り上げながら呟くと、ミトロフォンが努めて明るい声で答える。
「でも魔物自体は魔力そんなにないんだったろ!? 出尽くせば終わるんじゃねえの、うんこみたいに!」
真っ先に彼を殴り飛ばすナターシャは、呪歌の弾き歌いに忙しい。ニキハはミトロフォンに構うのはやめて、岩陰で眠っているシズイにちらりと目を向けた。
シズイには魔物の攻撃が届いていないが、彼は夢に魘されているように寝返りを打っている。
………………
王子と対峙したシズイは、いつか図鑑で見たロケットランチャーに似た氷の重機を生成し、部屋全体を消し飛ばしそうな勢いで発砲し続けていた。王子は金の盾でなんとか防ぎつつ逃げまわりながら、上滑りするような声で言う。
『茨、が。邪魔をする。私と王女の。――斬り伏せる!』
「は、オレは茨なのか」
シズイが鼻で笑って、氷の弾丸を放って王子の動きを封じる。
突如、背後の王女の周囲から新たな茨が飛び出し、シズイの身体を絡めとった。
「しまっ――」
棘が肌を引っ掻き血が滲む。ナターシャもこんな痛みを受けていたのか、と心中で思う。
同時に、猛烈な眠気に襲われた。気を抜くと一気に引きずられる。霞む視界の中、王子が剣を構える。
(……くそっ!)
ニキハ、ミトロフォン、ナターシャの顔が脳裏をよぎる。
「……――っ、――――ッッ!!」
シズイが全身を震わせ、呪文と魔法陣を同時に展開させて絶叫する。巨大な氷のマシンガンが出現し、ありったけの氷弾の嵐を撃ち放った。
………………
三人の息切れが、洞の中に響く。呪本の攻撃は最初よりは減っているが、それでもまだ這い出してくる。体力の限界が近づいていた。
「みんな……はあ、もうちょっと、頑張ろう」
ニキハが額の汗を拭って、槍を握り直す。
「あー……しんど!」
ミトロフォンが疲労の溜まった右手を振って、矢をつがえる。ナターシャは少し噎せてから、気だるそうにアルペジオを弾いた。
その時、呪本が突然ガタガタと震え出した。ページのあちらこちらに薄氷が張り、ところどころ小さな氷柱が飛び出す。
「……! シズイ……!!」
ニキハが振り返ると、シズイは変わらず魘されるように眉間に皺を寄せている。
「――シズイ、中で上手くやれてるのかな!?」
「くっそー、あと一息かよ!」
「ゲホッ、ごほっ……クソが、」
ナターシャが思い切り息を吸い、長いシャウトと共にギターで速弾きをする。彼の魔力に背中を押され、疲労が少し和らぐ気がする。ニキハは小さく笑った。
ナターシャに向かって振り下ろされる太い茨を、ニキハが槍で叩き落し、その上を伝うように駆け上がった。ミトロフォンが真剣な表情で呪文を呟きながら弓を引き絞り、僅かに目を細めた瞬間放った。衝撃で補聴器のチェーンがちらちらと揺れる。
矢は空を裂くように真っすぐ飛び、ボロボロになった呪本のノドに突き刺さった。
ばら、
とページが千切れ、大量の紙が舞い上がる。その中から、
『giiiiiiiiaaaaaaaaaa!!!!!!!!!!!!』
耳をつんざくような断末魔と共に、黒いカラスのような魔物が転がり落ちた。
「そいつだ! やれっニキハ!」
ミトロフォンが叫ぶ。ニキハは大きく踏み込んで飛び上がり、全体重を乗せて魔物を突き刺した。
……
…………
………………
“翠の洞窟”を抜けると、四人の疲れた顔を夕日のオレンジ色が照らす。シズイがニキハの背中の上で目を覚ました。
「ああ、起きたかよシズイ」
ナターシャが嗄れ気味の声で言うと、
「……ちゃんとやれたか?」
シズイはまだぼんやりとした様子だが、三人の顔をそれぞれ瞳に映す。
「大変だったぜ!」
顔色に疲れを残しながらも、ミトロフォンが快活に笑った。
「ふふ、オレも。……ニキハ、もう歩けるから、下ろして」
「あ、うん。大丈夫?」
言われてニキハが屈み、シズイが地面に足をついて彼から離れる。少しよろけたのを、ナターシャが腕を掴んで支えた。シズイは彼らに礼を述べてから、ぐぐ、と身体を伸ばした。
「っはあ……ここ最近は寝た気がしなかったな」
「今日はみんな、ちゃんと眠れるといいね……」
ニキハの苦笑交じりの言葉に、三人は三者三様に同意した。
オレンジ色が、少しずつ藍色に近づいていく。人間が夢を見る見ないなど全く関係なく、夜は平等に街を迎え入れる。